小林一茶の句碑がある西方寺
参道を出て駐車場の横、大通り側に小林一茶の詠んだ句があります。
善光寺周辺を散策しながら、ぜひ見つけてみてください。
『散る花や 月入る方は 西方寺』
『迹臼は 烏(からす)のもちや 西方寺』
小林一茶について
宝暦13年5月5日(1763年6月15日)-文政10年11月19日(1828年1月5日)
江戸時代を代表する俳諧師の一人である。本名は小林弥太郎。
長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の貧しい農家に生まれ、15歳の春には、江戸に奉公に出されました。
奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになり、以降、数々の名句を詠んでいます。
西方寺についても、いくつかの句を読みました。
何度か西方寺を参詣していた一茶
『大門町を西に入った西町にある浄土宗の寺・西方寺。明治4年、初めて長野県庁が置かれたことで知られている。
本堂は十一間四方の大建築で、江戸時代初期の建立か。一茶の時代にも、現在の本堂が威容を誇っていた。
大門町から西方寺に入る道を広小路という。一茶がしばしば立ち寄った門人の滝沢柯尺(松屋八郎次・松八)宅は、大門町の広小路の近くであったというから、一茶も何度か西方寺を参詣しているに違いない。
西方極楽浄土に往生を願う一茶にとって、西方寺が善光寺町の西側にあることがいかにも仏都に似つかわしく思えたことだろう。そして、あらためてこの町が「御仏の浄土」(父の終焉日記)であることを意識したに相違ない。これらの句には、こうした思いがこめられているのだろう。』
平成9年「長野学第2回報告書【長野心の道分科会】」より引用
(長野商工会議所、八十二文化財団)
◆西方寺には川中島合戦のその後のエピソードがあります
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