長野県長野市にある西方寺のホームページ
長野県と西方寺

最初の長野県庁仮庁舎

 

明治四年(1871)六月に、中野から県庁が長野の地へ移った時、西方寺を県庁として長野県が始まりました。
【元亀元年(1570) 武田信玄書状の長野の地名、徳川幕府天保郷張の長野村、近世の長門町の呼び名が長野町、いまの上長野・下長野の小字名】
 総職員51人中47名が、赤いジュータンを敷いた本堂へ靴で上がり勤務しました。
三年後明治七年十月に西方寺西裏の長野町袖長野腰村(現在の信州大学教育学部)に新庁舎が建設されて、その時に西方寺の境内地を横切って西町新道(若松町)が開通しました。

 (以下、「市誌第5巻歴史編」より引用。)
・・第1章長野における明治維新より・・
「〜そして県庁は長野村の西方寺を仮庁舎にして移転した。廃藩置県は明治4年7月14日におこなわれ、旧藩県(松代・須坂・上田・小諸・飯山・岩村田・椎谷の一部)は解体することになった。同年11月20日に府県の統合がおこなわれ、中南信は飛騨とあわせて筑摩県、東北信は長野県(旧長野県)となった。県令職には中野県から引き続いて立木兼善が権令として就任した。〜略〜 県庁移転は直接的な人口増加をもたらさなかったが、波及効果は大きかった。多くの官庁(裁判所・監獄等)が長野町に設置され、その官庁の官員の赴任ばかりでなく、家族や一族が多数移住してきた。高級県官は江戸時代の武士のように家来を連れてきており、県官の一族やこれらの使用人たちのうちで、長野県学校に入学したものは、名簿のなかに身分肩書きが県官の家来として記されている。 〜中略〜 明治5年2月までは、廃藩置県後の移行措置で長野県管轄、松代藩管轄と政治上では分かれていたこれら地域であったが、政府の行政単位の変更などはあったものの、善光寺を中心に経済・祭礼その他で深く結びついていた地域であったから、しだいに一つの経済圏、一つの生活圏としてつながりを強めていった。〜略〜」

「長野」の地名の起こった場所

長野町地図(「市誌第8巻旧市町村史編」より引用。) 
大門町の西に平行して西町があり、その西町の西にもう一つ平行して長門町がある。この長門町は、近世には「長野町」とも呼ばれていた。いまも上長野、下長野の小字名があり、また、現在の信州大学教育学部のあたりに袖長野、中長野、西長野の小字名がある。「長野」はこのあたりについた小字名で、この地名の初見は、元亀元年(1570)の武田信玄宛行状である。「野」は扇状地などの傾斜面をそう呼ぶことがあるから、「長野」は「長いゆるやかな傾斜面」という意味か。

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