「風林火山」・・川中島合戦のその後をご存知ですか?・・
紫雲石(しうんせき)
西方寺の傍らに、いずれより現れたか紫の石の上に善導大師の御顔の像が乗っていた。一方で、越後の国柿崎の郷で、海中より善導大師の御体の像が引き上げられたので、取り寄せてみると合致して一体の善導大師像となりました。
そこでそれまでの宝乗寺の名を改めて、善導寺としました。その後、川中島合戦(1553、1561年)の後、天正元年(1573)に武田信玄が没し、天正6年(1578)に上杉謙信が没した後の天正10年(1582)に武田勝頼が没すと、越後の上杉景勝が同年に川中島から海津城へ入り、この像を奪って越後の高田の地に安置して善導寺と名づけました。
これにより、善導寺と称していたのを、西方寺と改めたと「蓮門精舎旧詞」に元禄八年、西方寺十世悟蓮社得譽上人忍阿大然廓(圓)眞(瑞光)大和尚(1733年没)が記しています。
川中島合戦の時に上杉謙信にカブトを切りつけられた武田信玄を守った守り本尊の髻の毘沙門天像は、現在、所沢市の名刹多聞院に安置されています。
無方池(なきかたいけ)
西方寺門前の塔頭の随勝院側にある無方池(無刀池)は、善光寺七名所の七池の一です。
三祖良忠上人の縁で孫弟子の良慶明心上人が、この池の近くに来て講義所を開いたのが月形房で浄土宗の名越派伝法の最初の地であったようです。
墓 地
寛政の五異学の一人である塚田大峯と歌人の塚田慈廷の父で新井白石にも学んだ塚田旭嶺(1697〜1766年)や俳人で知られる馬島路人の墓などがあります。
また、江戸の棟梁とともに国宝善光寺の再建に大きくたずさわったのは、善光寺如来ならびに大本願棟梁の坂口伊左衛門で、西方寺にその代々の墓所があり、現在の当主まで守られてきています。
まだまだあります、その他の見所
全国的にも珍しい「赤いお地蔵さん」や
「日本初のチベット大仏」、「本堂内の品々」など、西方寺境内には見所満載です。
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